文治五年(1189)4月29日、奥州・平泉の衣川館(ころもがわだて)を攻め込まれた主君「義経」を守って、「武蔵坊弁慶」が討ち死にしました。源義経主従は、平家討伐で功名を立てたものの兄・源頼朝の不興を買い討伐される身となり、奥州・平泉の藤原秀衡(ひでひら)の元へ逃げ込みました。そして義経一行は、衣川館に屋敷を与えられ安住の地を得たかに思われましたが、それもつかの間、秀衡が病死し跡を継いだ泰衡(やすひら)が頼朝の圧力に屈して裏切り、義経主従が住む衣川館を攻め込みました。主従は奮戦するも500騎の泰衡軍に次々と討ち取られ、弁慶も堂に籠もった主君義経をかばうように無数の矢を受け、力尽きました。この時、弁慶は立ったまま戦死したことから、「弁慶の立ち往生」と言う伝説が生まれました。「平家物語」最後の名場面ですが、これは事実か、はたまた後の世の講談話だったのでしょうか。一般的に、人は死ぬと神経がマヒすることから筋肉が弛緩して、その後2時間ほどかけて徐々に硬直して行きます。いわゆる「死後硬直」と言うものです。ところが、スポーツ中など筋肉が極度の疲労状態にある場合は、筋肉を硬直させる反応が強く速く出て、死亡直後に硬直することがある、との医学見解があります。弁慶は激しい戦闘の最中に絶命したために「即時性死後硬直」が起こり、持っていた薙刀(なぎなた)が支えとなって立ったまま倒れなかった、というのが「弁慶の立ち往生」の医学的可能性だとされています。死してなお、主君義経を守る豪傑「弁慶」らしい最後でした。(2024.4/15) |